本論文は北部タイ山地に居住するスゴーカレン族の民族誌である。1986年から1994年まで行なった現地調査をもとに記されている。北部タイのスゴーカレン族は1960年代まで頻繁に村落を移動させて分散拡大していた。調査当時の1980年代から90年代は定住化が急速に進行した時期であったが、依然として調査地では移動の文化が保持されていた。本論の目的は移動を核として組織編成されていた彼らの文化を記述し、そこから移動の起因を探ることにある。それは同時に定住化の過程を明らかにすることにもつながった。
本論は序章に続く第6章と終章から構成されている。
序論の第1節では先行研究における焼畑耕作民の移住を検討してカレン族の移動における理論的分析の可能性を考察している。第2節では本論文で扱うカレン族が「部族」的特徴を有する集団であること、「部族的」カレン族には文化的な共有があり、その文化を記述することを述べ、第3節で調査地がカレン族の移動の東辺のフロンティアに位置しているゆえに移動の文化が保持されてきたことを指摘する。
第1章は民族名称である「カレン」の生成を扱っている。カレンという呼称はビルマ語に由来する他称である。王国(あるいは国家)の統治政策、キリスト教の布教活動、および民族誌的な調査が互いに密に絡み合いながら生成が促された民族名称である。ゆえにその生成を追うことが民族誌的研究を論じることになる。頻繁な移動が彼らの文化的特徴として言及されつつも、研究課題としては周辺に留めおかれた現状を述べる。民族としての「カレン」は四段階を経て生成されるが、本論の調査対象である「移動するカレン族」は第一段階の断片的な記録の時代にまでさかのぼることができる。第二段階では口承伝承にもとつく民族移動が分析され、第四段階ではもはや移動をしなくなった村落を拠点として移動する個人が研究対象となっている。本論はこれまで検討されてこなかった第三段階における小集団での移動を論じることが目的である。
第2章で調査地の概要を紹介している。移動するカレン族の研究ゆえに調査地として選択されたのは伝統的な村落であった。第1節で山間部渓流沿いに形成された居住地域を、第2節では季節の変化に応じて営まれる狩猟採集と焼畑を生業とする村の一年間の暮らしを、第3節ではそこで送る人間としての彼らの一生を概観している。伝統的な村落でも変化と無縁ということはありえない。第4節の小史では移動から定住へと変わる調査地の歴史的背景をタイ国の近代化政策とのかかわりを含めて紹介している。
カレン族の移動の単位はゴ(/〓/国)、ジ(/〓/村)、ドゥ(/〓/家)である。それぞれの単位における移動の諸相を第3章から第5章で論じる。第3章はゴ(国)の移動を扱っている。カレン族の移住はゴからゴへと移動することである。ゴとは境界をもつ一つの領域である。そして一連のゴ移動の延長上に死者のゴ(国)への帰還がある。死者のゴは断絶した異次元に存在するのではなく、隣接する共時の空間である。彼らの日常は定住化によって変わりつつあったが、死者のゴはまだかつてのフロンティア色を濃厚に残していた。そこで第1節では葬式を検証事例として、ゴが太陽の方向(東西)と川の流れ(川上川下)と上下を基本方位として形成される領域で、ゴにはゴを支配する領主がおり、領主の治めるジ(村)で、ジの住人たちはゴ内の恵みに拠って暮らしをたてるという彼らのゴ観を明らかにする。
人間界における最初の移住も死者のゴからである。死者と人間のゴの間を移動するのはガラと呼ばれる霊魂である。人間の身体は1体と18対36体のガラから構成されているが、36体は動物群からなる霊魂である。彼らにとって遊動は常態となっている。第2節では出産誕生を通じて出て行く側からフロンティアとしての人間のゴを探り、口承伝承をもとにゴの領主のほかに存在するもう一体の超自然的存在について論じる。
死者のゴの辺境には人間の「始祖」とも呼べる超自然的存在が共存している。世代から世代へとつなぐ時系列を体現する民族的な存在である。人間の寿命や生き方を定める。この神をめぐる伝承には狩猟、漁労、採集の文化が色濃く反映されており、移動するカレン族において文化の深層心理ともいえる起源神話や霊魂観に移動が刻印されているさまを明らかにする。
第4章はジ(村)の移動を論じている。ゴからゴへ移動するということは、ジを新たに移すことであった。第1節ではロングハウスから村落へというジの歴史的変遷が記されている。調査地のジは家(ドゥ)の集合からなる共同体であった。第2節ではジの世帯構成を分析して移動するジの特性を明らかにしている。ジにはジコ(村長)と呼ばれる長がおり、ジコは父から息子へと継承が期待される。移動するジはキョウダイ間のドゥ(家)の紐帯によって維持され、適正戸数は10軒前後となる。
第3節では1960年代まで繰り返されていたジ(村)の移動を再構築し、ジとジコと川の関係を明らかにする。ジは一支流一村を基準として形成される。ジコはゴに進出した「最初の移住者」であり、ジ内においては系譜上の「最年長者」でなければならなかったが、一つの川に二村以上が建てられるようになると、ジコの条件である「最年長者」と「息子の継承」が矛盾するようになった。
第4節ではゴとジの境界で行われる儀礼分析を通してその領域を検証し、ゴがジを基準として形成される世界観であることを示す。居住するのに適した場所を探してジが建てられると川を方位としてゴが形成される。川を遡った源流にゴの神(ティ・グチャ・ゴ・グチャ)が宿り、その神の影響が及ぶ範囲、すなわち分水嶺を境とする山と森がゴの領域となる。ジはゴ内における人間の領域であり、ク(焼畑)とともにジコの管理責任の対象となる。さらに支流沿いにジが進出する場合、支流を基準として新たにゴが創設されるが、流れを共有するという解釈から本流と同一のゴ内に包括される。ジコの継承とは本流における居住許可の継承であった。その一方でゴの神を祀る儀礼はその様式を息子が父から引き継ぐ。それゆえにジコの「息子の継承」が唱えられることになる。
第5節はジコの役割を検討している。ジコの役割は居住許可を得たゴの神を祀る村祭を催すこと、ジの構成単位となる夫婦(家)をジに統合すること、焼畑における豊作を祈念することである。ジコは儀礼でつねに「最初」の人となり、また「最後」の人となってジの家々を包括する。だからジコはジの「最年長者」でなければならない。ジを形成するのに長幼の序が遵守されるのはそれゆえである。「最初の移住者」「最年長者」「息子の継承」というジコの条件はこのように異なる背景に依拠しているゆえに、ジコの死亡時にジが分裂移動せざるを得ない状況へと至る経緯を解説する。第6節では焼畑と移動の関わりを考察している。稲の神は焼畑とともに導入された神で、ジコがゴの神に準じて扱うが、稲作はゴを越える世界観をもたらしている。稲作起源の伝承と焼畑儀礼分析から、稲の神がゴという独立した領域に「系」の糸を通し、ドゥ(家)を単位とする経済活動を導入し、移動を禁じる時期を生じさせたことを示す。
第5章ではドゥ(家)の移動を論じている。ドゥは分裂増殖していくジの分芽に相当する。ジの移動は調査時には終わっていたが、家は依然として4~5年ごとには建て替えられ、分家し、ときにジからジへと移っていた。第1節で家の儀礼に関する先行研究を整理し、第2節で移動の起点となるドゥの建築構造および工程を概観し、ドゥが移動型簡易住居であることを提示する。第3節では頻繁な建て替えにもかかわらず継続していくドゥを構成員の視点から分析して、ドゥが夫婦と同義であることを明らかにする。第4節では家の神シコムカを祀る儀礼を検証し、家の神のもつ多面性と重層性が、夫婦の神でありながら、ときに「祖先」を形成したり、儀礼において女性の優位をもたらしたりしていることを示す。第5節で夫婦を単位とする儀礼の実践が親の家のまわりに子供の家をゆるやかにつなぎとめながら漸次的に前進する彼らのロングハウス型の移動形態を生み出す仕組みを解説する。その起点が家の神同士の間に存在する競合関係(イロサ)であることを明らかにする。
カレン族の超自然的存在間には基本的に競合関係が存在する。中でも双頭となるのがドゥ(家)の神とゴ(国)の神である。二神はともに相容れず、死者のゴに共に存在しながら異なる他界観を形成している。ゴの神は空間の神であり、家の神は時系列の神である。その両神を並び立たせられるのは夫婦の間だけである。その仕組みが移動の単位である夫婦に安定性とともに機動性をもたらす可能性を推察する。すなわち夫婦は両神を並び立たせるために安定した「対」でなければならず、かつ空間と時間を均衡させるゆえに独立した単位として存在しなければならないからである。
第6章では移動によって形成されるゴ(国)とジ(村)とドゥ(家)において定住化ゆえに、すなわち移動できなくなったゆえに生じつつある齪蠕を1980年代後半から1990年代前半の調査地の現状として描く。第1節では動的なゴに生じた固定化と階層化を、第2節ではジコの資格に生じる諸条件の相互矛盾がジコの権威を低下させていく過程を、また男性の神であるゴの神が水田耕作の導入によって衰退していく経緯を、第3節では女性の領域であるドゥを司る神の放棄が始まる瞬間を描いている。
終章では全体の議論を要約するとともに序章で提起した問題を再検討しながら、カレン族の移動の起因を考察している。彼らの移動は彼らの信仰する超自然的存在間にある競合関係と長幼の序にもとづく序列によってもたらされており、20世紀初頭のロングハウスの解体によってさらに機動力を高めることになり、東辺のフロンティアを押し広げたと推測する。しかし一支流に一つのジというゴ形成が人口増によって維持できなくなり、1980年代のタイ国の政策もあって移動の終焉を迎えたと結論付けている。