中国国民党形成史の研究-<孫文革命>の展開と党国体制の成立
深町 英夫
<孫文革命>発生の背景となったのは、アジア太平洋一帯に広がる華南人移動人口ネットワークの成立であった。これは元来、清代中期以後の爆発的な人口増加の結果、「地狭人多」と表現される華南において大量の余剰人口が生み山されたことによるものである。即ち、宗族を基本単位とする地域社会の既存の秩序・機構から排除された彼等は、秘密会党や海外華僑といった王朝の統治には服さぬ社会集団を形成し、擬制的血縁集団としての「漢族」に自己同一性の根拠を求めた。そして、彼等の中から現れた孫文を初めとする青年知識人集団は、列強の中国に対する圧迫を「漢族」の危機と認識し、その原因を外国勢力の進出よりも清朝の失政と捉えたため、興中会を結成して民族意識に覚醒した移動人口を動員し、清朝の打倒による「漢族」の共和国の樹立を図る<孫文革命>を開始したのである。これは、既存の支配-従属構造としての国家-社会関係の外に社会変動によって出現した社会集団が政治化して、国家体制の変更により自らが主体となる新たな国家-社会関係の構築を図ったものである。
これに対して、地方エリートは各省における産業の発達や教育・軍隊の近代化により、その利用し得る「資源」が多様化したため、科挙を通じた朝廷中央への依存が相対的に弱まり、次第に遠心的・地域主義的性格を強めていった。同時に、本籍回避の原則により地域社会を国家政治から分断していた伝統的な科挙官僚制に替わって、地方エリートが中央政治に直接参加し得る議会制度を採用することが求められた。彼等の中の最も急進的な部分は革命による立憲共和政体の樹立を唱え、東京の留学生界において興中会と合流して中国同盟会を結成したが、間も無く分裂して国内各省での運動へと回帰していった。そして、中国同盟会中部総会の指導する長江流域の地方エリート革命派の主導により、各省-社会の「再統合を前提にした分離独立」による朝廷-国家の崩壊という、奇妙な形を取った辛亥革命の結果として清朝が滅亡し、事実上の連邦制国家である中華民国の成立に至った。故に、これを「国家に抗する社会」と表現することができるであろう。興中会・中国同盟会といった革命団体も、概ね様々な社会集団の自発的政治化に依存していたのである。この間、孫文派の旧興中会勢力は香港の中国同盟会南方支部を拠点に、広東省においてのみ地方エリートの運動と合流しつつ、依然として移動人口を主要な勢力基盤として、辛亥革命に際して広東省の政権を掌握するに至った。
中華民国の成立により、立憲共和制・議会制民主主義という形で国民の政治参加が制度化されると、選挙・議会を通じて各省-社会を中央-国家へ連結する役割を担ったのが、横断的全国組織としての政党であった。武昌蜂起発生以前には事実上分裂状態にあった中国同盟会も、辛亥革命以後は全国的公開政党・議会政党となって国民党に改組し、各省に支部を設置して地域社会に党組織を浸透させ、地方エリートが中央・省政治に参加する媒体となることによって、地域社会内部において権力を獲得・維持するための、新たな「資源」という性格を持つに至った。しかし、その結果として国民党の組織は、既存の権力構造・階層秩序と一体化し、孫文派が政権を掌握した広東省においても、下層移動人口を排除して地方エリートに依存して党組織の拡大を図ったため、国民党の独自の指導性は失われた。故に、清朝から直接に政権を継承した袁世凱と選挙によって組織された国会とが次第に対立し、第1党となった国民党の急進派が第二革命を発動すると、中央政治への直接の参加の機会を持たぬ大部分の地方エリートは動員に応じなかった。そして、革命が間も無く失敗に終わるのに伴い、袁世凱によって中央・地方の議会が閉鎖され、一度制度化された国民の政治参加は停止され、国家と社会とは再び分断されたのである。
第二革命を経て中華民国は、袁世凱が独占的に掌握する中央政権と地方エリートの各省権力とが、相互に支持・承認し合うことによって均衡を維持しつつ、国家-中央と社会-地方との断絶が固定化された連邦制国家となった。これに対して海外に亡命した旧国民党員の内、孫文の絶対的な指導性を原則とする中華革命党は、国家権力を奪取する革命の過程を全面的に掌握するのみならず、最終的には社会全体を党組織に吸収することをも企図した点で、「党国体制」を構想した最初の革命政党であった。しかし、広東省の奪回を図った「討袁駆龍」運動において、その厳格な指導原則の適用対象は概ねエリートに限定されており、故に中国同盟会と同様に会党組織を通じて下層移動人口を動員し得たものの、運動の司令部を統一することには失敗した。そして、袁世凱の洪憲帝制によって上述の国家-中央と社会-地方との均衡が失われた際に、均衡の回復を求める西南諸省の軍事エリートが発動した護国運動に、広東省が統一された地域社会として参加することができず、広東省は逆に打倒対象としての「準国家中央」となったため、中華革命党は軍事的には一定程度の成功を収めながらも、辛亥革命時の様に広東省を掌握するには至らず、やがて中華革命党は活動を事実上停止したのである。
護国運動の終了後、袁世凱の様な突出した指導者は現れず、軍事エリート諸派の勢力均衡に基いて、地方エリートの中央政治への参加を制度化した装置であった国会が再開され、またその法的根拠である臨時約法も回復された。しかし、袁世凱の勢力を継承した北洋軍事エリートの掌握する中央政府と対立したことから、国会・約法は僅か1年程で再び停止され、これによって上述の勢力均衡が破綻したため、西南諸省の軍事エリートや国会議員・高級官僚等の中央政治エリートが主体となって、国会・約法の回復を唱える護法運動が開始された。こうして南北の地方エリートが対峙することによって連邦制国家としての中華民国は、軍事エリート諸派の勢力基盤である各省地域社会を単位とする分裂状態に陥ったのである。そして、これを政界再参入の好機と捉えた孫文派は、中央政治エリートと共に広州に初期軍政府を樹立して、北京政権に対抗するもう一つの中央政府とすることを図った。しかし、西南諸省の軍事エリートからも支持が得られなかったため、この政権は地域社会から遊離した国内亡命政権となり、やがて西南軍事エリートに奪取されて改組軍政府となった。
やがて、北京・広州両政権の間で南北議和が行なわれると、この会議から排除されていた孫文はその革命哲学を集大成した『孫文学説』を発表し、「知るは難く行なうは易し」と唱えることにより、三民主義や五権憲法といった革命思想を創造した「知者」としての自身が、政府を掌握して南北議和の主体となっている「行者」としての政治・軍事エリートに対して、優越的な地位を占めることを主張した。そして、「先知先覚」たる孫文の指導に完全に服する「後知後覚」たる革命党員が、「不知不覚」たる一般人民を動員して革命運動(行)を遂行することにより、孫文が進化の方向を示した革命思想(知)を具現化し、これを全中国人に共有させるべきことを説いている。これは、国家・社会の全体を革命党と一体化させるという「党国体制」の構想に、哲学的基礎を付与したものである。
やがて南北議和が決裂すると孫文は中国国民党を結成し、改組軍政府内部の分裂に乗じて陳炯明の粤軍が広西派から広東省を奪取したのに伴い、広州に復帰して再建軍政府を発足させると共に、広東省における中国国民党の基層組織の構築を開始した。しかし、「党人治粤」を唱えて軍政府を正式政府に改組し自ら大総統に就任することによって、全国統一と中央政権掌握という国家政治上の課題の解決を図る孫文と、「粤人治粤」を唱えて県長民選を実施したり省憲法の制定を試みることにより、広東省公署に拠って地域社会自治の完成を求める陳炯明とが対立したため、正式政府は再び国内亡命政権化した。また、中国国民党は省内各県の地方エリートに依存することにより、既存の階層秩序に適応する形で基層組織を拡大する一方で、広州等の都市においては労働運動への支援を通じて、下層民衆を党の勢力基盤とすることに一定の成功を収めたが、党が政府(中央・省)を掌握することができず、広東省内における国家と社会との分裂を解決して両者を一致させるには至らなかった。故に、孫文は正式政府とは別に大本営を設置して北伐を早期に実行することにより、広東省から退出することを決意したが、陳炯明の反乱によって挫折した。
他方、北京政府は北洋軍事エリート諸派の争奪の対象となっていたが、日本が安徽派・奉天派を、アメリカ・イギリスが直隷派を支持したのに対して、支持対象となる勢力を持たなかったソ連は、やはり外国の支持を得られずにいた孫文の中国国民党と、中国共産党を介して協力関係を結んだ。そして、西南軍事エリートの支持を得て広州に再建大本営を樹立すると、北京政府を掌握する直隷派とそれを支持するイギリスとを共通の敵とする、日本・ソ連との「日・中・ソ三国同盟」及び安徽派・奉天派との「反直三角聯盟」によって、孤立からの脱却を図った。この間、「聯ソ・容共」政策の採用に伴って中国国民党は党組織の「改組」を実行し、ソビエト共産党型の委員合議制を導入すると共に、広東省において下から上へと向かう組織化方法によって、地域社会の末端にまで基層組織を浸透させることを試みた。その結果、主に中国共産党員によって工会・農民協会に組織された下層民衆が党員の最大多数を占めたが、また再建大本営の主要な軍事力であった粤軍・客軍や商民協会に組織された商人、そして学生・知識人も中国国民党の重要な勢力基盤となった。即ち、軍事力によって地域社会に対する支配を確立すると同時に、この時期に興起しつつあった大衆運動を動員・吸収しつつ、特定の階層・集団の運動と一体化するのではなく、党がいずれの階層・集団に対しても超越・独立した最も有力な「資源」となることによって、新たな独自の権力構造・階層秩序を地域社会において構築していったのである。更に中国国民党は、孫文の死後に再建大本営から改組された国民政府と広東省政府とを完全に掌握し、やはり委員合議制を双方の政府に導入して、従来は概ね党外に在った中央政治エリート・西南軍事エリート出身者をも包摂することにより、唯一の政治参加の媒体となった。こうして、中国国民党が国家-政府と社会-地域とを共に掌握しつつ両者を連結する、「党国体制」が広東省において完成し、やがて北伐(国民革命)によって全国に拡大されることになったのである。