ポカホンタスは、二度、ジョン・スミスの命を救った。一度目は有名な助命で、1607年12月、インディアンの首長パウハタンによる処刑の寸前に、ポカホンタスが捕虜スミスに自分の体をなげうって助命をした。これは、スミスの死と生まれ変わりを象徴的に意味し、入植者をインディアンの世界に迎え入れる儀式で、ポカホンタスはスミスを救うというあらかじめ決められた役割を担った。この一度目の助命の真偽については長らく論争が行なわれてきたが、スミスが1608年6月の報告書簡でポカホンタスを「比類なき人物」と高く評価できたという事実は、助命が実際に起きたことを示している。その6月の時点で、スミスは助命の他に、取引や物資の提供と人質解放交渉の場面でポカホンタスと会う機会を持っていたが、それらの場面においては、スミスが「比類なき人物」と評価することができるほどの行動をポカホンタスがとっていなかったからである。そして、スミスがその報告書簡でポカホンタスを紹介したのは、入植事業の宣伝のためにインディアンとの平和友好をアピールするねらいがあった。つまり、スミスに批判的な研究者が主張するように、スミスがポカホンタスの人気にあやかって自分の名声をあげるために助命を捏造したのではなく、助命に感銘を受けたスミスがポカホンタスの人気を作り上げたといえるのである。
パウハタンは、一度目の助命でポカホンタスをインディアンと入植者の平和友好のシンボルとして仕立て上げ、その後の平和的な外交の場面にもポカホンタスを同行させていた。しかしながら、二度目の助命は、パウハタンの外交方針に逆らって、ポカホンタス自身の意思によって行なわれた。1609年1月、インディアンと入植者の関係が悪化するなか、パウハタンがスミスを本当に襲おうとしているところをポカホンタスがスミスに密告して救った。この二つの助命のあいだの期間、ポカホンタスは入植者と頻繁に会うなかで理解を深め、パウハタン連合のインディアンとしての忠誠心に揺らぎを生じさせていたのである。つまり、ポカホンタスは、単なるパウハタンの遣いとしての平和友好のシンボルであることをやめ、自らを平和友好の使者として確立させるに至ったのである。