繁茂する革命 : 1920-1930年代プラトーノフ作品における世界観
古川 哲
この研究は、アンドレイ・プラトーノフ(1899-1951)の、1920年代から1930年代の小説に見られる世界観の連続性の一側面について考察を行う試みである。本論文においては、この問題を追及するに当たり、ある直観的なイメージをモデルとして仮定し、それを作品において跡付けていくという手法がとられている。そのイメージは、物体が、その物体と比べて極めて大きな空間のなかで浮動している。そしてその物体は基本的に複数だが単数でもありうる。そしてそのイメージは物体と、その周囲の空間によって構成されている。より厳密に言えばそのイメージは、くっきりした輪郭を持つ物体と、それを含む場(必ずしも輪郭を持たない)という二重性を持らていた。そこから帰結するのは、このイメージは知覚と想像力の両方によって成立しているということだ。本論文では、このイメージを「飛散する花粉のイメージ」と名づけている。
第一章においては、作家の主要な作品、および作家の伝記的事項を概観した上で、このイメージが当てはまるような対象が作品中に存在すること、そしてそれは様々な表れかたをすることを素描的に示した。その結果分かったのは、次の四点である。第一に、プラトーノフ作品では、広大な空間と、そこで運動する微小な対象という対比、より正確には、極端に大きさの異なる二つの寸法の尺度が作品のなかに見られることがわかった。これは仮説を裏付けるものである。第二に、その微小な対象は自ら動くというよりは周囲の力に動かされている。その結果第三の点として、この微小な対象は、それが実際に植物であるかどうかにかかわらず、植物的な性質を帯びることになる。そのことは、この仮説の源泉としての飛散する花粉のイメージが、作品の中に対応する内容を持っていたことを示している。しかし、作品を検討する中で分かったのは、プラトーノフにおける植物的な性格をもった小さな物体が、何かを伝達するだけではなく、それ自体として再生する力を秘めたものでもありうるということだった。たとえば『エーテルの道』の場合である。その場合、花粉に加えて種子の要素が、飛散する花粉のイメージからはややはみ出す要素として浮かび上がってくる。そして第四に、作品を通して、そしてこの極大と極小の対比のなかでの微小な対象には革命の期待がこめられていることが理解された。これは最初の仮説のなかには含まれていなかった点である。しかし、伝記的事項に関する本章第三節でも述べたように、革命に関して、プラトーノフが実践の上でも創作の上でも深くかかわっていることを想起しよう。そのことを念頭に置けば、仮説を検証するなかで出てきたこの第四点は、飛散する花粉のイメージが、作家の持続的な関心の対象としての革命という主題と緊密な関連を持っていることを示すものだといえる。 したがって、プラトーノフ的な世界においては、ここまで述べてきたような、微小で、植物的で、革命的な変化の可能性をはらんだ対象は、この作家の創作において一貫するものだと考えられる。
第二章および第三章では、第一章での結果を踏まえ、作品において一貫するものとしての飛散する花粉のイメージを、複数の作品を比べるためのモデルとして使い、複数の作品における漸進的な変化が 考察されている。ここで検討されたのは、1926年から1935年にかけてのプラトーノフの主要な中篇作品および長編作品である、『エーテルの道』『チェヴェングール』『土台穴』『ためになる』『ジャン』である。
これら五つの作品を詳細に検討すると、第一章で、飛散する花粉のイメージを規定するものとしてあげた四つの要素に、変化が生じていることがわかる。それはとりわけ、五つの作品を通じて現れる、放浪者的なあるいは探求者的な性格を持つ主人公と自然との関係に注目するときにはっきりと現れる。
1926年に書かれた『エーテルの道』は、物質を自在に増殖させる技術を探求する物理学者たちの物語であるが、彼らが操作しようとする、物質の最小の単位であるとともに生物であるとされる「電子」には、飛散する花粉のイメージを跡付けることができる。人間と自然との間の関係がこの作品においては非対称、つまり一方的に人間が対象に作用を加えることによって成り立つようなものとして考えられ、そのような関係性が理念として追究されている。それは、人間に対して自然は対象としてのみ現れるような関係である。このとき、人間は能動的な存在として、そして自然は受動的な存在として現れる。
1929年に書かれた『チェヴェングール』は、真の共産主義を追い求めて放浪する主人公の物語である。この作品においては、人間を取り巻く周囲の自然が生命力に満ちたものとして描かれ、そして主人公のアレクサンドルが共産主義についての思想を、大地に根ざすべき植物の種子のように思い描いている。その点において、一定の留保は必要だが、この作品に飛散する花粉のイメージを跡付けることができる。この長編において、『エーテルの道』から主題は変化している。しかし、自分が目にする出来事への関与を避け観察に徹する主人公の行動において、彼が目にする出来事や人々はただ観察の対象としてのみ現れている。ゆえに、『エーテルの道』にあったような、人間と、人間が関心を向けている対象との間の断絶は保たれているのだ。しかし『チェヴェングール』においては、主人公は世界との関係において、観察に徹することによって、より受動的な存在となっている。
1930年に書かれ、農業集団化、および巨大な共同住宅の建設を描いた『土台穴』においては、それまでの作品と比べて画期的な変化が現れる。この作品においても放浪者的な主人公は登場し、彼が眺める植物についての描写において、飛散する花粉のイメージを跡付けることができるのだが、この作品における自然は、もはや人間による観察の対象にとどまってはいないのである。それは、自主的に集団行動をする馬たちや、富農の撲滅のために人間に協力する熊など、動物の形象がこの作品において極めて重要な役割を果たしているからだ。この作品においては、人間と、その周囲のすべての環境(気象までそのなかには含まれている)が、一体となって社会的な変化に関与しているかのような世界が描かれている。そのことによって、作品が成立した当時の社会の熱狂が効果的に、象徴的に描かれているのである。『土台穴』においては、主人公を含めてこの作品に登場する全ての人間は、自然からの影響を強くこうむって生きているという意味で、『チェヴェングール』よりもさらに明白に、世界との関係において受動的な存在へと変化している。
『ためになる』は、『土台穴』の直後に書かれた作品であり、この作品もまた農業集団化を主題としている。この作品においては『土台穴』のようには自然が描かれることはない。しかし、この作品は、『土台穴』において現れた、周囲の自然によって圧倒されるものとしての人間像を受け継いでいる。というのも、注目すべきことに、この作品において一人称によって出来事を報告する語り手の「私」に関する作品冒頭の説明を分析すると、この作品においてはその語り手が、飛散する花粉のイメージによく当てはまるような存在として提示されているのである。それまでは、放浪者的な登場人物が観察する、あるいは手を加えようとする自然においてのみ作品中に表れていたイメージが、『ためになる』においては彼自身において跡付けられる。その意味で、この作品においては、放浪者と飛散する花粉のイメージにおいて反転が生じているといえる。
1935年に書かれ、中央アジアの砂漠を舞台とする『ジャン』においては、『ためになる』のような語り手の設定はなされていない。しかし、この作品の主人公であるチャガターエフの自然に対する態度は、観察者のようでもなく、征服者のようでもない。むしろ彼は自然の一部としての自分を受け入れており、その意味で『ためになる』の語り手がもっていた受動性を受け継いでいるといえる。さらに『ジャン』においては、『ためになる』で生じた反転を継承し、かつ徹底するような出来事が描かれている。この作品においてチャガターエフは、砂漠で眠っているあいだに二羽の鷲に発見され、死には至らないものの捕食の対象となり、身体に損傷をこうむっている。これは、『エーテルの道』からの作品の変化を踏まえれば、人間が自然を操作する位置から自然によって手を加えられる位置へと移行したことを意味している。『ジャン』において、人間が自然を手段として扱う姿勢が消えてしまうわけではない。しかし、人間が自然界の一部であるという態度がはっきりと打ち出される。そしてこの挿話において重要なことは、チャガターエフが鷲から身を守りつつ、過酷な環境において生き延びようとして行動している鷲にたいする共感を覚えていることである。つまりここには、対称性、あるいは相互性という関係性が生じているのである。
このようにして、『エーテルの道』から『ジャン』へと至る時期の作品を、一方的な関係の否定としての対称性へと至る過程として捉えることができる。
第四章においては、論述の対象を『土台穴』と『ためになる』に絞って、第二章および第三章の議論を踏まえつつも、作品の背景にある歴史的な文脈をも含めた考察が行われている。第四章は前章に至る議論で描き出された変化において鮮明になった、登場人物の受動性の高まりという要素に焦点を合わせつつ、この変化において画期をなす『土台穴』について、ほとんど同時期に書かれた『ためになる』との対比を踏まえながら論じた。論文の構成のなかでは、第四章は、第二章および第三章に対する補論としての性格をも持つ。つまり、第四章で正面からは扱い得なかった、作品がもつ歴史的文脈についての考察を上記の二作品に限ってではあるが行うものとなっている。