『市民という名の民族-ネパール、プラジャにおける4つの異人表象から見た象徴世界と民族的自己イメージに関する研究-』
橘健一
ネパールに「プラジャ」という、一般に「市民」や「臣民」を意味する語を民族名として名乗る人びとがいる。この人びとは従来「チェパン」と呼ばれてきたが、「未開」イメージと結びつけられがちな、その名称を嫌う。人びとは「プラジャ」としてのアイデンティティを持っているが、自分たちが何者なのか、多くを語ろうとしない。それは、自己イメージについての語りが「未開」言説に取り込まれてしまうからである。
本稿では、約3年間のフィールドワークによる資料をもとに、歪んだ未開イメージとは異なる、人びとの生活の現実を示す。そして、そこからさらに人びとの自己イメージの潜在的可能性としての民族イメージとそれを内包する象徴世界を抽出する。それらの抽出により、自己表象に困難を抱えるプラジャの人びとにとっての自己表象の資源を提供することが、本稿の目的である。同時に本稿は、民族と国家の関係や民族のアイデンティティの問題を考察してきたエスニシティ論に新たな視座と方法論を提出することを目指す。
第一部では本稿の目的と課題について論じる。
従来のエスニシティ論では、議論の前提として、民族のアイデンティティが国民国家成立以前から「連続」し基本的に同一的であるとするか、あるいは国民国家成立によりそれ以前のアイデンティティが「分断」あるいは「断絶」されて民族内部に様々な差異を抱え込んでいるとするか、そのいずれかを強調する立場をとってきた。そしていずれの議論も、アイデンティティを分析するために民族自身によって提示された「自己表象」を取り上げてきた。
それに対し、本稿は「連続」か「分断」か、という二者択一の立場をとらず、「分断」があるからこそ「連続」を論じることができる、という観点にたつ。また、プラジャの人びとによって提示されることが稀である「自己表象」に焦点を当てるのではなく、神話や日常行為、慣習などの生活の様々な場面を取り上げ、そこから「自己表象」の素材となり得る多様な潜在的「自己イメージ」を抽出していく。
本稿と類似した立場から議論を進めている先行研究としては、スミス(1999(1986))があげられる。スミスは、歴史主義的な視点から、理論的な操作として現存のネーションの深層に近代以前の共同体であるエトニを想定する。そして、エトニを近代以降のネーションから「分断」されたものとして設定した上で、ネーションとエトニとの様々な「連続」の可能性を描き出す。しかし、この議論は、エトニという実定できない過去を自明のものとしてしまう問題を抱えている。
本稿では、スミスの議論の可能性を掬い上げつつ、彼の誤謬を避けるため、共時的な多位相分析をおこなう。それは、スミスのように社会の「分断」を歴史的な層として描くのではなく、共時的な位相として捉え直し、位相間に見られる形態の類似性を双方向的に読み込んでいく方法である。
そのような分析の先駆には、箭内(1995)のチリにおけるマプーチェの文化生成についての議論がある。箭内は、チリのマプーチェにおける民族の生活をマプーチェ的、チリ的、中間的という3つの位相(箭内によればハビトゥス)に分け、そのあいだの反復(「連続」)を読み取ることで文化生成の可能性を探っていく。だが、その分け方(「分断」)が箭内によって自明なものとして決定されているという点が、本稿の目的から見ると問題となる。
本稿では、人びとの主体的経験を起点として生活を複数の位相に分断することを目指し、ある異人(筆者)に対して人びと自身が与えた4つの表象に注目する。それらはチンラン(人喰い鬼)、チョール(泥棒)、サール(先生)、ドゥキ(苦労人)である。これらの異人表象に隣接する象徴を接続していき、異人がどのように想像されているのかを明らかにしていくことで、同時に各異人表象の背景にある象徴世界を構成していく。
その際、世界を構成する最低限の論理が必要となる。従来の異人論を見てみると、二項対立がそのための論理として取り上げられているが、本稿ではその二項対立ではなく、二項対立の前提になっている「切断=接続」や「排除=包摂」という論理を象徴世界構成のために用いる。そして、二項対立成立などの道筋を動態的に描き出していく。
上記の異人表象から象徴世界を概観すると、それらは個別の世界であると同時に「出自と縁組」、「専制国家」、「国民国家と開発」、「開発以降」あるいは「個人の経験」という人びとの生活の位相としても読み取ることができる。本稿では、その4つの象徴世界=位相を構成し、そこからさらに象徴世界=位相内の民族の存在イメージを抽出する。そして、最終的にはそれらのイメージをその形態的類似性によって接続することで、歴史性を伴った主体としての民族イメージを抽出する。
第二部では、チンランの象徴世界、つまり「出自と縁組」の位相を分析する。
チンランは、神話や物語に登場するが、それと同時に必ず現れるのは「肉」である。そこで、世界を構成していくために「肉」が人びとの生活のどのような場面で登場し、あるいは語られ、そのなかでどのような「切断=接続」や「包摂=排除」と結びついているのかを検討する。
「肉」は人びとの生活のなかで狩猟との関連でよく語られるので、まず、シカやトラなどの野生動物と人間との関係がどのように捉えられるのかを検討する。家畜であるブタの「肉」は、結婚の際、姻戚と父系の親族のあいだで交換され「娘が肉を持ってくる」と象徴的に語られる。そのような縁組と父系親族の出自論理はどのようなものなのか、ついで検討する。また、父系概念を支える所有と相続の問題も分析し、父系親族が基本単位となる祖先儀礼の内容も検討する。さらに、祖先霊たちがいる異界の姿を描写した上で、人びとが祖先霊たちとどのような関係を取り結んでいるのかを明らかにする。
こうして動物と人との関係、そして肉の分配に関わる人間関係、人間と超自然的存在との関係をまとめ、最終的にチンランが、相互交換する人間の外部に措定される存在であり、同時に家畜であるブタの対照的な存在であるという可能性を明らかする。そして、それらの中心に位置づけられる「平等主義的に相互交換をおこなう人間」という民族イメージを抽出する。
第三部では、国家と関わる位相、チョール、サール、ドゥキの象徴世界を分析する。
チョールとは、泥棒のことであり、それは政府が転覆し無政府状態になったときの記憶やイメージと結びつけられ語られる。ここでは、その転覆した政府と人びととの関係について検討する。まず、その政府が専制的な国家体制によっていたことを示した上で、人びとが村内に定められた徴税役を介して、それとどのような関係を持っていたのかを明らかにする。
ついで「チョールが沢山いた場所」として語られる「森」と人びとの生活との関わりについて触れた上で、その「森」がどのようなかたちで維持されてきたのかを、明らかにする。そして「森」が登場する神話を取り上げ分析する。そうした神話は、ネパール語で語られヒンドゥーの神やブラーマンが登場する「ネパール的」、「ヒンドゥー的」な神話であり、そこでは国家的な権力と人びととの関わりが描かれている。また、そのようなヒンドゥーや国家的権力の対照的存在として、クスンダという「未開」の存在も確認できる。そこでクスンダとは何者なのか論じた上で、日常の言説でも人びとがクスンダを自分たちより劣った存在として「排除」していることを明らかにする。チョールの世界では、専制国家と関わりを持つなかで、「森」の住人として国家やヒンドゥー社会の外部に「排除」されつつ、未開を「排除」する人びとのイメージを抜き出す。
そこからさらにサールの世界を記述していく。サールとは、「先生」と訳すことのできる敬称である。それは、おもに学校の教師、開発スタッフ、政治家などに対して用いられる。ここでは、まず学校設立の状況を明らかにし、さらに1951年民主化以降の政治制度の変化が、人びとにどのような対応を取らせることになったのか分析する。また、1960年前後から始まる周辺地域の開発計画がもたらした変化、人びと自身が開発の対象とされた経験について分析する。その過程で人びとが、ラタ(愚鈍)だがソージョ(純粋)な自分たち、バト(賢い)だがチュチョ(けちな)なサールたちという二項対立に陥る状況も分析する。そして、サールたちと鏡像関係に陥りながら、行き場を失う人びとのイメージを抽出する。
つぎにドゥキの象徴世界を分析する。ドゥキとは「苦労人」や「苦痛に耐える人」という意味を持つが、筆者はこの表象を与えられることで調査地に受け入れられた。ここでは筆者をドゥキと表象した背景世界を捉えるために、この表象を筆者に与えたある男性に注目する。そして、その男性がドゥキとして扱っていた人たちが「最後に残された者」とでも言える人びとであることを明らかにする。
さらに「最後に残された者」はどのような動機から受け入れられたのかを探るためにその男性の日常的な志向やライフヒストリーを取り上げ、彼の志向の背後に民族が抱えるダブルバインド的な状況があることを示す。また、ドゥキに手を差し伸べることが、ダブルバインドから現実主義に足を踏み出すことに繋がっている可能性を指摘する。同時に、そうした感覚が多くの人に共有されていることを示す。
結論では、各象徴世界に存在する民族イメージの相互接続の多様な可能性を探り、過去の記憶を背負った主体としての民族イメージを抽出する。まず、ドゥキの世界で外部の存在から一方的に奪われるのを嫌う人びとの姿が、チンランの世界の平等主義的に生きる人びとの姿と重なり合う可能性を示し、平等主義を担いつつ開発の論理に対応していく人びとのイメージを抽出する。また、逆に新しい開発の時代における人びとの眼差しが、サールたちの眼差しの裏返しでもあり、それが「専制国家の位相」の権力と結びつく可能性、また、チンランという「出自と縁組」の位相における相互交換の外部の眼差しとも重なる可能性を指摘する。こうして、かつて自らの外部としたものを自らのうちに受け入れ、権力的主体として生きる民族イメージを抽出する。
このように自己イメージの潜在的可能性としての多様な民族イメージを抽出し、それらが相互に浸透、あるいは反発する可能性を指摘する。また、民族イメージの抽出という行為が、4つの位相として内包された分析の空間から、その外部へと接続される可能性を探る。
そして最後に、「市民」として「排除」、「包摂」されてきたプラジャの人びと自身が、どのように他者を「排除」、「包摂」してきたのかをまとめ、さらにプラジャがそうした「排除」、「包摂」とは異なる論理、つまり対立した状況に留まりながら新たな世界を想像し、他者との関係を築いていく「市民」である可能性を持つことを明らかにする。
本稿は異人表象の分析と多位相分析の組み合わせにより、従来のエスニシティ論とは異なる民族イメージを捉える新たな方法を導入した。それは、民族の秩序の外部と内部との重なり合いなど、これまでの議論で十分に描かれてこなかった民族イメージが複雑に絡まった状況を示すこととなった。