ゴトン・ロヨン思想-インドネシア・ナショナリズムの思想として-
桾沢英雄
インドネシア語のゴトン・ロヨン(gotong royong)は、通常「協同作業をする」もしくは「助け合う」と訳される用語(以下用語ゴトン・ロヨンの表記は「ゴトン・ロヨン」)である。しかし、この用語はインドネシア社会のさまざまな分野において大きな影響を与えてきた多様な概念を有する。ゴトン・ロヨンの概念は、インドネシア政治の分野においては、スカルノの「指導する民主主義」期にゴトン・ロヨン精神という形で政治的党派融合のためのスローガンとして頻繁に唱導された。経済の分野では、村落開発における無償労働力動員を正当化する手段として政府によって活用された。さらに文化の分野では、その村落慣行の概念がインドネシア地域古来の伝統文化を示すものとされた。
このように「ゴトン・ロヨン」はインドネシア社会にさまざまな影響を与えてきた概念であるにもかかわらず、その多様な概念自体が通時的、歴史的に十分に検討されることはなかった。1940年代以降70年代まで「ゴトン・ロヨン」が示す村落慣行にどのような慣行があるかという村落調査がインドネシア各地で断続的におこなわれてきた。1980年代以降ゴトン・ロヨンは政治・文化・社会事象に関わるものとして、ボーウェンやサリバン等によって文化人類学や社会学の研究分野で取り扱われるようになったものの、「ゴトン・ロヨン」の概念史としての研究は十分おこなわれていない状況にある。
他方、ゴトン・ロヨンはインドネシア・ナショナリズムの思想としても、インドネシア近・現代史において重要な役割を果たしている。のちにインドネシアの国是とされるパンチャシラ(建国五原則)は、1945年のスカルノによる「パンチャシラ誕生」演説での表明を端緒としている。この演説でスカルノはパンチャシラを一原則に集約すれば、ゴトン・ロヨンになると述べている。この時点のゴトン・ロヨンは、パンチャシラを包摂するものとして捉えることができる。つまりゴトン・ロヨンは、インドネシア・ナショナリズムの思想として位置付けることができるのである。
1950年代以降インドネシア・ナショナリズムの思想研究は、ナショナリストの運動史やナショナリズムの理念史としてケーヒンやウェザビー等によっておこなわれた。しかしインドネシア・ネーションとは何かという観点からのインドネシア・ナショナリズムの政治思想史研究への取り組みは、十分におこなわれてきていない。特にインドネシア独立時にインドネシア・ネーションとは何かという問題へのナショナリストの回答、換言すればインドネシア・ネーション創造の思想という観点での言説分析による研究はおこなわれていない。
そこで本研究では、近年政治思想史研究の主流となった、コンテクストを重視しつつ客観的、通時的テクスト分析をおこなうというスキナーの方法論に基づき「ゴトン・ロヨン」の概念史を跡付けた上で、インドネシア・ネーション創造の思想としてのゴトン・ロヨン思想とは何かということを明らかにする。
まず「ゴトン・ロヨン」の概念史が概観される。「ゴトン・ロヨン」の起源について先行研究は、ボーウェンに代表されるように「ゴトン・ロヨン」は比較的新しい用語であるという、クンチョロニングラットの見解を採用している。本稿では、ジャワ語辞書等における「ゴトン・ロヨン」の辞書掲載状況から1930年代後半に「ゴトン・ロヨン」が辞書に採録されるようになったことを明らかにした。また管見するところ、文献に見られる「ゴトン・ロヨン」の初出はスカルノの1933年の論文である。クンチョロニングラットは、「ゴトン・ロヨン」の初出は1937年に刊行された、オランダのワーヘニンゲン学派の慣習法の著作に見られるとして文献名を挙げているが、この文献には「ゴトン・ロヨン」は記載されておらず、オランダ語の相互扶助を表す用語が記載されているだけである。クンチョロニングラットのこの記述は事実誤認であったことが本稿の検討により判明した。
「ゴトン・ロヨン」が文献上で次に確認できるのは、太平洋戦争における日本軍のインドネシア地域占領時代の日本軍政当局の資料においてである。これらの資料では、ゴトン・ロヨンは村人が家を建てたり婚礼を挙げたりするときに協力しあう、ジャワ社会に古くからあった慣習で、隣保相扶の精神、奉公精神と同一のものであるとされた。これは軍政当局が占領統治をより効率的にするために隣保制度を導入するに際して、その根拠付けに「ゴトン・ロヨン」を用いたものといえる。
日本軍政末期の1945年に独立準備調査会が開かれた。この会議で先述の「パンチャシラ誕生」演説がスカルノによっておこなわれ、パンチャシラ(建国五原則)を一原則に集約すれば、ゴトン・ロヨンになることが表明された。このときのゴトン・ロヨン思想は、社会階層、人種、宗教のわけ隔てなく、<共>の精神をもつ国民が新しいインドネシアの国民であり、その国民の国家がインドネシア共和国であるというものであった。その後インドネシアは独立を宣言し、毎年8月17日の独立記念日に大統領演説がおこなわれることが慣例化した。特にスカルノが1957年に表明した「指導する民主主義」構想以降、ゴトン・ロヨンはこの独立記念日演説で頻繁に用いられた。そこでのゴトン・ロヨン思想は、「パンチャシラ誕生」演説当時のゴトン・ロヨン思想とは異なり、伝統性と村落性が強調され、西洋民主主義の対抗理念としての役割を担った。この間のゴトン・ロヨン思想の変容には、オランダとの独立闘争が終わり、1950年にインドネシア共和国が再発足したという政治環境の変化とあいまって、53年に刊行されたスタルジョの『デサ論』におけるゴトン・ロヨン概念についての主張、58年の村落調査が関連している。
1965年にスカルノ体制からスハルト体制への転換が進み、1968年にスハルトが大統領になると、独立記念日演説で「ゴトン・ロヨン」が用いられることはなくなった。スハルト体制下では、政治の安定と開発が唱えられ、「ゴトン・ロヨン」は開発のコンテクストで用いられるようになる。人類学者クンチョロニングラットは1950年代末にジャワで村民間の協力慣行の調査を行い、見出された慣行を七種類に分類し、これらをゴトン・ロヨンとすることで、その概念を精緻化していた。この七類型は、村民間の互酬的な関係と村落行政に関わる奉仕労働を内容としたものであった。ゴトン・ロヨン慣行研究の権威と位置づけられたクンチョロニングラットは、1970年代になるとゴトン・ロヨンを文化価値観として捉え、これに関わる思想を示すことを通じてゴトン・ロヨンが開発に適合するかという問題についての見解を発表した。この見解によれば、ゴトン・ロヨン思想とは、他人より抜きん出ようとはせず、絶えず同胞と良好な関係を維持しようと努力する義務のもとに、困難なときには同胞からの援助を期待できるものだとする。この思想には開発に適合するものと開発を阻害する心性につながるものとがあるとし、開発の心性の阻害につながるゴトン・ロヨンの思想は正していくべきだとした。しかし1970年代後半にスハルト体制のパンチャシラ国学化が進み、いわば、公定のゴトン・ロヨン概念が奉仕労働の実践の勧めを強調するものとなっていく中で、クンチョロニングラットはゴトン・ロヨン思想についての捉え方を変えた。ゴトン・ロヨン思想とは、他人への協力を好み、他人への思いやりの態度を持ち、他の階層や他の宗教の信奉者に対しても寛容を示すものだとした。これはスカルノが「パンチャシラ誕生」演説で述べたゴトン・ロヨン思想に通ずるものがある。
次に、インドネシア・ネーション創造の思想としてのゴトン・ロヨン思想とは何かについてスカルノの1933年論文、「パンチャシラ誕生」演説、独立記念日演説における「ゴトン・ロヨン」の言説とクンチョロニングラットのゴトン・ロヨン思想の言説の分析を通じて示される。
本研究では、インドネシア・ナショナリズムの思想をインドネシア・ネーションとは何かを示す国民創造の思想と国民国家インドネシアの統合を強化する国民糾合の思想に大別して分析している。インドネシア・ナショナリズムの思想としてのスカルノのゴトン・ロヨン思想は、対オランダ独立闘争を終えた1950年のインドネシア共和国再発足の時期を境に国民創造の思想から国民糾合の思想に変容した。スカルノの国民創造の思想としてのゴトン・ロヨン思想では、社会階層、人種、宗教のわけ隔てなく<共>の精神、すなわちゴトン・ロヨン精神をもち、公衆の安寧を重視する国民が新生インドネシアのネーションであるとされた。他方、スカルノの国民糾合の思想としてのゴトン・ロヨン思想は、その特性として伝統性と村落性を帯び、政治的党派融合の精神であり、西洋民主主義の対抗理念としての役割を担うものに変じた。従来のゴトン・ロヨンに関する研究では、このスカルノのゴトン・ロヨン概念/思想の特性の変化を捉えておらず、スカルノのゴトン・ロヨン概念/思想は、伝統の創造として一様のものとして把握されている。本研究はこの誤認を通時的言説分析の観点から指摘した。スカルノのゴトン・ロヨン思想に基づく、クンチョロニングラットの後期のゴトン・ロヨン思想では、ゴトン・ロヨン精神は他者を思いやる共感性の思想として捉えられている。
現代の思想状況に照らして、スカルノの国民創造の思想としてのゴトン・ロヨン思想とクンチョロニングラットの後期のゴトン・ロヨン思想がどのようなものであるのかについて示すと、この思想はインドネシア地域の村落伝統の思想ではなく、より普遍的ないわばストア派やカントの「世界市民」的心性に通じるものがある。この「世界市民」的心性とは、階級、地位、身分、出身国、居住地を副次的かつ道徳的意味のない性質のものとして取り扱い、理性的人間性と道徳的に結びつき、それによって自身の行いの目的を定める心性である。加えて、自身の内部と周囲にある社会から怒りを根絶するものである。
本研究では、インドネシア・ナショナリズムの思想としてのゴトン・ロヨン思想の探求に先立ち、先行研究で明瞭でなかったゴトン・ロヨンの概念史を文献資料の通時的分析により示した。この中で「ゴトン・ロヨン」の文献上の起源を示し、従来の研究の誤認を指摘したことは、ゴトン・ロヨン研究に新たな知見を加えた。このゴトン・ロヨンの概念史を基盤とし、本研究が新たに明らかにしたインドネシア・ナショナリズムの思想としてのゴトン・ロヨン思想の諸相は、インドネシア・ナショナリズムの思想史研究に再考を促す材料を提示しうる。
第一に、本研究はスキナーの方法論を援用し、スカルノのナショナリズムの思想としてのゴトン・ロヨン思想が1950年代前半に変容していることを捉えた。この知見は、ゴトン・ロヨン思想を通じてのスカルノのナショナリズムの思想を「インドネシア革命」の思想として一様に伝統性を帯びたものとして捉える、ウェザビー等の従来の捉え方を乗り越えるものである。第二に、本研究が指摘した、スカルノの1950年代以前のナショナリズムの思想としてのゴトン・ロヨン思想の提示内容が普遍的な性格を持つもの、いわば「世界市民的」心性を帯びているものであるという知見は、ハッタ、シャフリルは西洋派であり、スカルノは民族派であるといった従来の思想傾向の捉え方が、必ずしも常時妥当であるとはいえない捉え方であることを示している。
スカルノのゴトン・ロヨン思想は、1950年にインドネシア共和国が再発足し、本格的な国民国家建設が開始されると、従来の普遍的な性格を持つ思想から一つのネーションの中に閉じられた伝統性を帯びた思想に変じた。このような変容が生じた原因の探究は、インドネシアのナショナリズムを解き明かす一つのカギとなろう。このカギを使ってインドネシアの政治史、思想史の面から次の扉を開くことが、筆者の当面の研究課題である。