本論文は、西アフリカガーナ共和国の現地語の1つであるアカン語アシャンティ方言を対象とする記述研究であり、特にその音韻面に焦点を当てて考察する。本論文は、第1章「序論」、第2章「アカン語の音韻と形態」、第3章「アカン語の母音調和」、第4章「アカン語の声調」、第5章「アカン語のリズム」、第6章「結語」の計6章から構成される。
第2章「アカン語の音韻と形態」では、アカン語の構造の全体像を、音韻および形態の面から概観する。音韻については、第一に母音および子音体系について、第二に音節構造について、第三に声調の種類と機能について概説する。形態については、名詞、動詞、繋辞、代名詞、形容詞、副詞、接続詞、および第3章、第4章を中心として議論の対象となる接語を取り上げ、その形態的特徴や種類、機能について概観する。
第3章「アカン語の母音調和」では、本論文における第一の中心的テーマである母音調和に関して論ずる。主に次の3つの問題に焦点を当てる。第一に、アカン語の母音調和の非対象性に関する問題である。アカン語の10母音i,I,e,ε,a,з,u,〓,o,ɔのうち、iとI、eとε、uと〓、oとɔはそれぞれ母音調和素性[Expanded]に関して対立するが、aとзについてのみこのような対立が見られない。しかし、共時的にはaの異音であるзの分布の制限はe,oの分布上の制限と類似する。すなわち、これらの母音は基本的にi,uと共起する。このような分布上の制限は、i,uが共起しない環境においてこれらの母音が[―Expanded]になるという通時的変化によるものであると考察する。
第二に、語根境界におこる母音同化について、先行研究間あるいは先行研究と筆者のデータ間に、同化がi,uによってのみ引き起こされるか、e,oによっても引き起こされるかという相違点があることを指摘し、この相違を通時的変化によるものと解釈する。そしてこの相違が母音調和領域である語内においてз,e,oが基本的にi,uと共起することに関連すると考察し、母音調和と母音同化に起こった通時的変化は、もともと[+Expanded]母音が持っていた[―Expanded]母音への影響力の喪失という同様の変化であると考察する。
第三に、先行研究においては例外なく「接頭辞」とされる後接語の母音の振る舞いに焦点を当てる。先行研究において後接語が「母音調和」の対象とされ、筆者のデータにおいて後接語は語根と同様に「母音同化」する、という違いは、先の母音同化に関する先行研究間あるいは先行研究と筆者のデータにおける違い、すなわち母音同化の引き金となるのがi,uのみかe,oも含むかという違いに並行する。このことから、後接語に関する先行研究と筆者のデータの違いもまた母音調和、母音同化に起こった通時的変化と同様の変化によってもたらされたものであり、この通時的変化が語根におけるそれに比べてごく近年起こったものであると考察する。さらにこの第二、第三の考察に対応するような音響的データが得られることを提示する。
以上の考察から、アカン語の母音において、[+Expanded]母音と[―Expanded]母音は対等の関係にあるというより、[+Expanded]母音が有標であること、母音調和と母音同化は基本的には同様の現象であり、両者の違いは語根内、接辞境界、接語境界、語根境界といった形態論、統語論的環境に応じて[+Expanded]母音がどの程度周辺母音に影響を及ぼすかの違いであると考察する。
第4章「アカン語の声調」では、本論文における第二の中心的テーマである声調を扱う。第一に名詞の声調を取り上げ、まず名詞語根および接辞が、基底においてどのような声調情報を持つかについて考察し、接辞に関しては接尾辞は基底でHを持つが、接頭辞は基底で独自の声調を持たず、派生によってL声調がもたらされ、語根の声調に関する情報はトーンメロディおよびアクセント情報からなると分析する。次に、所有名詞句における声調の変化を取り上げる。名詞はDolphyne(1986,1988)が指摘するようにClass I,Class IIの2つのクラスに分類され、アシャンティ方言においてClass Iについては、Stewart(1983b)、Dolphyne(1986)が指摘するように通時的な声調移動を考慮しなければならない。これを踏まえた上で両研究における3つの問題点を指摘し、①声調移動は、Stewartの言うような声調変化の位置ではなく、Dolphyneの言うようにfloating Hの語根頭への移動である、②floating Hは、語彙レベルでClass I名詞の語根頭直前にあるものではなく、もともと所有接語が担っていたものである、③所有名詞句におけるClass I,Class IIの声調の違いは、接頭辞のデフォルトL付与が、所有名詞句構造が取られる時点でなされているかなされていないかのみによってもたらされる、と考察する。
第二に動詞の声調を取り上げ、15の活用形における表面声調形がどのように決まるのかについて考察する。そしてこれらの表面声調形を決定する要素は、①各形態素の基底声調、②活用形固有の声調、③声調規則、④アクセント移動規則の4つであると分析する。
第三に、語根+語根の構造における声調を取り上げ、この構造において声調がどのように振舞うかを概観し、各要素の相互依存の程度によって各要素が本来の声調で現れるもの、一部あるいは全体が画一の声調となるものの大きく2種類に分類されると考察する。
第四に接語の声調を取り上げ、語と同様に振舞うもの、接辞と同様に振舞うもの、語と接辞の中間的な振る舞いをするものがあることを示し、このような接語の声調の振る舞いは、接語が語から接辞への移行段階にあることに対応するものであると指摘する。
第5章「アカン語のリズム」では、本論文における第三の中心的テーマであるアカン語のリズムについて考察する。まず、アカン語のことわざには、自然発話と区別される韻律的特徴があり、それは自然発話の韻律的特徴を強調したものであると考えられる。この推測に対して統語論的には、ことわざにおいて自然発話には無いような統語境界とリズム境界の不一致があることが指摘できる。これを踏まえて、本章では音響的アプローチを試み、主に次の2点を指摘する。第一に、ことわざにおいて自然発話よりも、フット内の音節数のばらつきがより制御される。第二に、ことわざにおいて自然発話よりも、フット内音節数増減に伴うフット長の伸張・短縮を制御するような音節長の短縮・伸張が起こる。このような自然発話との時間的な調整程度の違いが、ことわざに自然発話と区別されるような韻律的特徴をもたらす、言い換えると、自然発話との時間的な調整程度の違いが、アカン語において、ことわざというジャンルを特徴付けていると考察する。
本論文は、主に以下の3点において、意義があると考える。第一に、コーパスの側面においてである。アカン語の記述研究はいくつかあるが、それらの研究で扱われるデータは収集時期が古く、共時的研究には不十分である。本論文の至る所で指摘するように、アカン語の音韻には通時的変化が顕著である。本論文で提示する、筆者が2001年から2006年にかけて収集したデータは、共時的研究のみならず、方言間の比較研究や通時的研究にも貢献できると考える。
第二に、アカン語は、特に母音調和を中心とする音声・音韻分野に関して、アフリカ諸語の中では比較的研究がなされているとはいえ、まだ着手されていないテーマも少なくない。本論文では、そのようなテーマのうち特にアカン語のリズム、接語に関する研究に取り組み、重要な指摘を行うことができたと考える。
第三に、既に研究されている分野においても、未解決の問題が多く残されている。本論文は、それらの問題のうち特に母音調和と声調に関する問題に取り組み、新たな解釈や分析法を示すことができたと考える。