ベンデ語(バントゥF.12,タンザニア)の記述研究-音韻論,形態論を中心に-
阿部 優子
ベンデ語はNiger-Congo語族Bantu諸語の1つで,Tanzania西部のMpanda県を中心に話される.Bantu諸語は伝統的にアルファベットと2桁の数字で分類され,アルファベットはゾーン名をあらわし,さらに近い言語を10番台,20番台...のように数字で示すが,ベンデ語はF.12とされる.話者数は,約27,000人である.
ベンデ語には文字記述の伝統がなく,これまでにベンデ語を体系的に扱った言語学的記述が発表されたこともない.したがって,本論文は筆者自身の現地調査で得られたデータを用いた初めてのベンデ語の記述文法である.本論文以前に比較対照研究のために集められた部分的なデータは発表されているが,それによってベンデ語がいかなる言語であるかを知るのは困難である.本論文はベンデ語の初めての言語学的記述ということもあり,できるだけベンデ語の全体像を見渡せるような記述を心がけた.本論文以前の研究で集められた部分的なデータでは,Bantu諸語内部におけるベンデ語の分類がうまくいかないという指摘もあることも鑑みると,本論文で提示されるベンデ語の新たな資料は今後の比較Bantu諸語研究に貢献できるものと考える.
本論文は,序章,第1章-6章,終章,および資料(ベンデ落語彙集)から構成されている.そのうち,言語に関する記述,分析は,第1章から第6章である.第1章は先行研究の紹介,第2章から第6章までは,筆者の現地調査で得られたデータに基づく記述,分析である.第2章は音声・音韻論,第3章は声調,第4章は名詞形態論・第5章は動詞形態論,第6章は統語論である.
序章ではまず,ベンデ語を話す人々の社会的概略を示した.特に,ベンデとトングウェというグループがこれまで2つの異なる民族,言語であると分類されてきた問題を扱い,本論文ではベンデ,トングウェを1つの言語の2方言とする根拠を示した.また本章では調査地,調査協力者,調査に利用した資料等の現地調査の基本情報,および本論文で用いる略号・表記法などを示した.
第1章はベンデ語についての先行研究である.言語学以外の分野では,ベンデ人とほぼ同じ言語,文化を持つトングウェ人についての日本人研究者の研究の蓄積が豊富である.伊谷の動植物名の記録,同定作業,また動物と民族の関係についての記述,および掛谷によるトングウェ人社会,精神世界の人類学的研究は,言語記述に役立ったのみでなく,現地コミュニティーを理解する助けとなった.
言語学の分野では,比較対照研究のために集められた部分的なデータによる記述があるが,その中で特に重要なのはGuthrie, Nurse and Philippson, Nurse, Liddle and Liddleのものである.最も古いのはGuthrie(1948,1967-71)で,現在一般に知られているF.12というベンデ語の分類はGuthrieに拠るものである.Guthrieは「ベンデ語」をF.12,「トングウェ語」をF.11としているが,Guthrie(1967-71)はベンデ語を調査してはおらず,「トングウェ語」の資料を示している.Guthrieのこのトングウェ語の記述は,筆者のベンデ語のものと比べ,母音の数,NCV音節の解釈の違いがある.Nurse and Philippson(1980)は語彙統計学的立場から,TanzaniaのBantu諸語の系統関係を明らかにしようとしたもので,ベンデ語の試験的な分類を試みた.Nurse(1988, 1999)は,歴史的音韻変化から,東アフリカのBantu諸語の分類を試みたもので,ベンデ語も取り上げられている.しかしベンデ語は,いずれの基準でも,決定的な分類の根拠が見出せないと指摘されている.Liddle and Liddle(1999)の社会言語学的調査報告は,ベンデ語を中心的に記述した最初のもので,Gordon ed.(2005)のEthnologue 15^<th> editionに反映されている.ただし,本報告ではベンデ語の言語構造については触れられていない.
第2章は音声・音韻論である.ベンデ語の音節は常に開音節で(N)(C)(G)V(V)のように示される.子音音素が19(/p,b,t,d,c,ɟ,k,g,m,n,ɲ,ŋ,N,f,s,z,h,j,w/),母音音素が5(/a,e,i,o,u/)ある.本章では母音の長短,母音の分布,鼻母音,二重母音,母音調和を示した.また歴史的音変化の一つである摩擦音化は,動詞派生や動詞活用における音交替を説明するのに必要な規則であることを示した.
第3章は声調である.ベンデ語では声調が意味の区別に関与する.声調は音韻論の一部であると同時に,形態論でもある.ベンデ語の声調は,音節ごとにH(高声調),L(低声調)が決まっているというわけではなく,それぞれの名詞語幹,動詞語根が,H,L,0型の3種類のいずれかに分類され,その声調型と語全体の音節数によって,H,L,F(下降声調),R(上昇声調)の声調が決められる.ただし動詞声調は,動詞語根と接辞の声調の総和で説明できるものと,動詞語根の声調の区別がなく活用形ごとに声調のパターンが決まっているものとがある.さらに動詞語根と接辞の総和で声調が決まるタイプについては,Anti-Meeussen's RuleというHが連続すると左側のHが消去される規則が適用されることを示した.
なお,ベンデ語の声調は,Bantu祖語のものと比較するとH,Lが逆に実現されるものが多い.ただしベンデ語では,Bantu祖語で*HH,*HLのものがすべてLHに,Bantu祖語で*LH,*LLのものがすべてHHとなっている.つまり,Bantu祖語における*HHと*HL,*LHと*LLの区別が,ベンデ語では失われている.
第4章は名詞形態論である.ベンデ語の所謂「名詞クラス」は,1から18までの18クラスある.名詞類の構造は,基本的に[接頭辞-語幹]であり,クラスごとに接頭辞が決まっている.名詞構造にあらわれる接頭辞には名詞接頭辞,代名詞接頭辞,数詞接頭辞があるが,名詞接頭辞を取るのは名詞,形容詞の一部であり,代名詞接頭辞を取るのは代名詞(指示詞),所有詞,形容詞の一部,数詞接頭辞を取るのは数詞である.本章ではさらに,動詞の名詞化,副詞的名詞,倚辞を扱った.
第5章は動詞形態論である.動詞は[PreSM-SM-PostSM^n-PreR-ROOT-EXT^n-PreF-F]の8つのスロットからなる.動詞は語根(ROOT)を中心に,それぞれのスロットに接辞が入りうるが,最小構成要素は,ROOT-Fの命令文である.語根前のスロットには,前主語標織(PreSM),主語標識(SM),後主語標識(PostSM),目的語標識(OM)があり,それぞれのスロットに接辞が入る.入りうる接辞は,前主語標識スロットに随伴辞,否定辞_1,主語標識スロットに動名詞接頭辞,主語接頭辞,後主語標示スロットに否定辞_2および継続辞,7種類のTense-Aspect-Mood辞,遠辞,目的語標識スロットに再帰代名詞接頭辞,目的語接頭辞である.なお,後主語標識以外のスロットに入りうる接辞は1つのみだが,後主語標識スロットには,最大4つの接辞が入りうる.語根後のスロットには,拡大辞(EXT),前末尾辞(PreF),末尾辞(F)があり,それぞれのスロットに入りうる接辞は以下の通りである.拡大辞には11の派生接辞,前末尾辞には強意辞,完了辞,末尾辞には直説法辞,接続法辞,接続否定辞,命令辞である.なお前末尾辞,末尾辞スロットに入りうる接辞は1つのみだが,拡大辞スロットに入る接辞の数は特に制限がなく,意味が推測できる範囲でいくつでもつけることができる.
ただしこれらの接辞は,すべて網羅的に組み合わせがあるわけではない.後主語標識,前末尾辞,末尾辞の組み合わせによる活用形のパターンには限りがある.活用形には語根1つからなる単純形と,語根2つからなる複合形があり,複合形は一方の語根が助動詞的役割をしている.単純形肯定は全部で25の活用形があり,過去時制が14,現在時制が4,未来時制が7つである.単純形否定は全部で19の活用形があり,過去時制が12,現在時制が2,未来時制が5つある.複合形肯定は全部で8の活用形があり,過去時制が2,現在時制が3,未来時制が3つある.複合形否定は全部で6の活用形があり,過去時制が2,現在時制が1,未来時制が3つある.
第6章は統語論に関するいくつかの問題を取り上げた.ベンデ語の語順は,動詞に義務的に主語接頭辞が,部分的に目的語接頭辞があらわれ統語関係が標示されるために,比較的自由である.ベンデ語は他のBantu諸語の多くと同様に呼応がある.(代)名詞と(代)名詞修飾語の間にはクラスの呼応が,(代)名詞と動詞接頭辞の間に,クラスないし人称の呼応がある.受動文の主語については2つの制限があり,能動文SV IO DOにおける間接目的語(IO),および場所クラスは,受動文で主語になることができない.さらに動詞が取る項数と適用形の問題を指摘した.また本章では,4種類の命令文と,3種類の従属節(接続節,結果節,関係節),比較文を示した.
終章は,本論文を総括し,方言差をまとめて示した.また本論文で残された問題と,今後の研究の方向性を示した.
別冊に約2800語項目のベンデ語語彙集を資料として付した.語彙集中の略号は,本論中のものと対応する.