和文要旨
論文題目:エカテリーナⅡ世の出版統制政策 -貴族文化人の知的活動の変容-
氏名:中神 美砂

18世紀後半、エカテリーナⅡ世は、ロシアの近代化を目指して、啓蒙活動をおこなった。そして、ロシアの西欧化を実現するために出版活動を積極的に支援し、読者層の拡大を図ったが、書物が近代的自己意識の覚醒をもたらす以上、思想と表現の自由を抑制する手段として出版統制政策を実施せざるをえなくなった。
本論文の目的は、18世紀後半に現われた貴族文化人とエカテリーナⅡ世との関係を出版統制政策の観点から考察することである。また、エカテリーナⅡ世がおこなった出版統制政策と貴族文化人の「自己意識」及び「社会的役割意識」がどのように相互作用していたかという点から、出版統制政策を分析することもひとつの目的である。問題意識の根底には、ラテン語起源のロシア語の言葉«цензура»と«цензор»が意味する内容がある。これらの言葉は、現在はそれぞれ「検閲」、「検閲官」と訳されるが、18世紀後半においては「批評・校閲」、「批評家・校閲人」の意味が強かった。また、出版物の印刷許認可に関しては、エカテリーナⅡ世が直接介入していたことが明らかになった。
第1章で考察したように、18世紀後半のロシアには「公衆」と呼ばれた「読者層」として商人や都市住民などもわずかに存在したが、この時代の「公衆」の主体は教養があり、書籍を購入できる貴族層であったことがわかった。このような「公衆」の中心的役割を果たしたのが、西欧文化を享受し、語学を含め教養を身につけた貴族文化人であった。そして、出版業の進展と出版物の普及と共に「世論」も形成された。だが、この時代の「世論」は幅広い階層の意見ではなく、「公衆」を形成する貴族を中心とした「世論」であったことが、エカテリーナ治下のロシアの特徴といえよう。
「公衆」の空間的広がりや出版業やジャーナリズムの発展により、エカテリーナⅡ世や宮廷は、もはやロシアの文化生活において唯一の中心ではありえなくなり、出版も文芸活動も国家の事業ではなくなった。とくに、「公衆」の中心であった貴族文化人が自由主義的であり、なおかつ国家の管理を離れ、自立の動きを見せた時、エカテリーナⅡ世は伝統的宗教と専制君主国家を維持するために、思想と発言の自由を主張する批判勢力を抑圧する手段として、出版統制政策を本格的に利用し始めている。このような過程は、「読者」の急激な増加と出版業の拡大が見られる18世紀後半から末にかけてエカテリーナⅡ世がとった出版統制政策に顕著に反映されている。
そのため、出版統制の法令整備は、エカテリーナⅡ世の社会・政治・文化政策が変質し、それがどのようにエカテリーナⅡ世と貴族文化人との関係に影響したかを示す証左となっている。
エカテリーナⅡ世時代の出版統制政策は、印刷物の製造・流通・販売に関わる営業規制と印刷物の審査・認可をおこなう印刷物の内容に介入する内容規制(検閲)、検閲機関の整備の3要素から構成されている。ただし、これらは相互に密接に関係しており、独立して存在するものではない。
第2章から第5章までは、これまでロシア帝国で発布された出版統制関連法を時系列的に、エカテリーナⅡ世と貴族文化人との関係及び法令発布の目的という観点から考察し、エカテリーナⅡ世の治世期を3つの時期に区分した。
第Ⅰ期は1762年~1782年までとした。これは、国家が出版産業を独占していた時期にあたり、内容規制に相当する法令はほとんどなく、印刷所設立に関連した営業規制にあたる法令が多い。エカテリーナⅡ世は営業規制の形で、国内の出版業を保護し、ジャーナリズムの発展を促した。そのため、第Ⅰ期には、出版活動及び文芸活動が推し進められた。そして、エカテリーナⅡ世が貴族文化人を庇護したため、貴族文化人との協力が成立した時期とみなすことができる。出版統制政策の目的は、出版産業の育成と国家事業としての文芸事業の支援と外国文化の受容にあった。
第Ⅱ期は1783年~1789年までとした。1783年に民営印刷所の設立を認める勅令が発布され、出版業が国家独占から外れた。そのため、出版物の国家管理からの解放と同時に出版物の内容を規制する内容規制法令(検閲)が公布される。エカテリーナⅡ世と貴族文化人の関係は、貴族文化人との協力から対立関係へと進む。また、出版統制政策の方針は、国家管理から自立しはじめた民間人の出版活動に対する監視と外国文化の受容の見直しへと変容した。
第Ⅲ期(1790年~1800年)にはエカテリーナⅡ世によるノヴィコフとラジーシチェフなど貴族文化人に対する弾圧を目指す法令と、検閲機関の整備関連法令が多く見られる。エカテリーナⅡ世は、フランス革命など外国の影響力の大きさに鑑み、出版統制分野の政策と自らの貴族文化人との関係を見直さざるをえなくなったからである。そして、両者の関係は、対立から厳しい管理へと移行している。この時期の出版統制政策の目的は、貴族文化人の出版活動に対する監視強化と外国文化の影響力の排除であった。
第2章から第5章において詳しく検討した出版統制分野の法令の特徴は、以下のようにまとめられる。
1)出版統制法令の整備は、ロシアにおける出版業の発展と文芸活動を含めた啓蒙活動の拡大と密接に関連している。
2)国内の出版業と貴族文化人の知的活動が活発化するに伴い、エカテリーナⅡ世は次第に公式の検閲機関設立の必要性を自覚し、最終的に1796年の死の直前に公式の検閲機関の設立を決定している。
3)出版統制制度の整備過程には、外国文化の影響に対するエカテリーナⅡ世の憂慮が反映されている。
4)出版統制政策への宗務院の関与が次第に減少し、ロシア社会の世俗化が進む。ただし、フリーメーソンなどの宗教組織の影響力が貴族社会において拡大すると共に、宗務院は自らの出版統制への関与を再度、エカテリーナⅡ世に要求するようになる。
5)出版統制法令、とくに内容規制にあたる検閲の基本原則が、一貫して正教、君主、公序良俗にあること。ただし、1789年のフランス革命以後は、上記の原則に外国の影響力の排除が加わっている。
6)フリーメーソンと外国の影響力の拡大に伴い、宗教検閲、世俗検閲、外国書籍検閲のように、次第に専門化された。
7)エカテリーナⅡ世は問題発生後に対策を採り、法令を発布しているがゆえ、その有効性については疑わしい。防御策としての出版統制政策は、エカテリーナⅡ世と貴族文化人の間に対立関係が生まれ、貴族文化人が自立傾向を強く示した時点からうまれた。
8)1796年に公式の検閲機関と検閲官が登場するまでは、審査人、批評家,及び校閲人としての検閲人はいたが、出版物の許認可に直接エカテリーナⅡ世が介入した。
9)エカテリーナⅡ世による出版統制関連法令の整備・発展は、貴族文化人特有の「自己意識」と「社会的役割意識」の相関関係、及び貴族主体の「公衆」と「世論」の形成過程と直接に関連している。
以上のような状況が生じた原因は、1796年まで公式の検閲機関が存在せず、出版統制政策の要となる検閲規約が整備されていなかったこと、エカテリーナⅡ世による情報手段を生み出す出版活動への認識不足と出版統制政策の必要性の自覚が遅れたこと、エカテリーナⅡ世がポリスの検閲機関としての役割に必要以上の信頼感を寄せていたことにあると考えられる。
そして、前述の9番目の項目が、本論文の目的である出版統制政策にみるエカテリーナⅡ世と貴族文化人の関係を最も的確に表しており、両者の関係は貴族文化人の出版活動と文芸活動を通じて観察される。貴族文化人がエカテリーナⅡ世から庇護を受けると同時に、彼女の批判者や競争者、協力者であった点は、18世紀後半の貴族文化人の際立った特徴である。
貴族文化人が持っていた「自己意識」と貴族としての「役割意識」の相関関係は、代表的貴族文化人ノヴィコフ、フォンヴィージン、ラジーシチェフに顕著に観察される。貴族文化人は、出版活動や慈善活動を通じて、政治論評を記し、直接政治問題に関与した。だが、彼らの政治論評活動は、貴族として強く感じていた役割意識から発展し、「公益に尽くす」ことを目指したため、初期においてはエカテリーナⅡ世との協力関係が生まれ、決定的な反対勢力を形成したわけではなかった。だが、エカテリーナⅡ世は、貴族文化人のこうした活動がもつ危険性を察知し、フランス革命以後は外国の影響力が貴族文化人に与える大きさを考慮し、出版統制関連法の整備の必要性を感じとった。
ロシアにおける出版統制問題は、ポリスへの高い信頼や出版業と文芸活動の保護・育成などに窺えるエカテリーナⅡ世の啓蒙文化政策に対する自信と、ラジーシチェフ事件や国内への外国書籍の流入に見られるような政策の綻びを同時に示している。また、出版統制問題には貴族文化人が啓蒙君主としてのエカテリーナⅡ世の出版統制政策に対して抱いた期待感と失望感に加え、彼らが出版・文芸活動に感じた高揚感と挫折感が、直接反映されている。
貴族文化人に見られる、西欧文明に憧れ、それを受容し実現しようとする動きと古きロシアの歴史と文化の意義を国民意識として自覚するという二つの方向性は、エカテリーナⅡ世の治世から始まり、近代ロシアに一貫して存在する。18世紀末には書物の広範な普及を背景に読書と議論を通じ、「理性を批判的に使用する能力」を持つ貴族文化人を中心とした「公衆」がうまれ、それが「世論」を作り出し、君主権力を批判した。出版統制法令は、エカテリーナⅡ世が貴族文化人に自ら与えた「思考し」「思考を表わし」「理性を批判的に使用する」自由をめぐる攻防の歴史と位置づけることができよう。