グスタフ・シュペートにおける言語と文化の哲学の構想
木部 敬
0.本論文の目的と構成
哲学とは何か-。この問いに対しては実に様々な答えがありえよう。だが、答えの一つに「存在に関する思索」があることは確かであろう。思うに、諸々の問題の中でも「存在」は最も根本的な問題である。というのも、問題とみなされる物事はすべて、存在するからこそ問題とみなされうるのであり、存在しないならば問題とみなされることもありえないからである。「存在に関する思索」は伝統的に「形而上学」と呼ばれてきた。
哲学の歴史において近代西欧の懐疑論(特にイギリス経験論)の登場は大きな事件であった。この懐疑主義は既存の伝統的な形而上学を徹底的に批判し、その結果、後者はもはやそれまでどおりの形では存続しえなくなった。しかしながら、形而上学的思索の頓挫は根本の探求の断念を意味する。近代的懐疑の後、いかにして「存在に関する思索」を継続するか、これが以降の哲学にとっての最大の問題の一つになった。
以上は主に西欧を念頭に置きながらなされた話である。だが、近代西欧の懐疑論の影響は西欧以外の諸地域にも波及した。それらの地域における伝統的な形而上学も破壊され、こうして、そこにおいても「存在に関する思索」の維持が大きな問題として意識されるようになった。
本論文の目的は、20世紀ロシアの哲学者グスタフ・グスタヴォヴィチ・シュペート(Густав Густавович Шпет, Gustav Gustavovich Shpet 1879-1937)の研究を通じて、ロシアにおける懐疑克服の試みを、その一端なりとも理解することにある。
本論文は以下のように構成される。
第1部は「生涯と思想の概観」と題され、次の三つの部分からなる。①生涯、②先行研究史、③思索の時期区分と思想の全体像。③においてシュペートの思索が1)修学期(1901年-1910年)、2)構想期(1910年-1916年)、3)展開期(1917年-1929年)に区分される。その上で考察範囲は2)構想期のみに限定される。この時期にこそ、シュペートは近代的懐疑を受容し、それを解決するための構想を得るからである。
第2部では、構想期に属するシュペートの著作が検討される。いくつかの中から次の三つの著作が選び出される。①「ヒュームの懐疑論と独断論」(1911年)、②「心理学の一つの道、それはどこへ通じるのか」(1912年)、③『現象と意味』(1914年)。これらはそれぞれ①懐疑の受容、②構想の兆し、③構想の提示にあたる。
1.生涯
シュペートは、1879年4月、キエフで生まれた。1898年、彼は聖ヴラジーミル大学(キエフ大学)の物理・数学部に入学する。だが、それと同時にマルクス主義の政治活動に関わり、これが理由で放校される。
1)修学期(1901年-1910年)
1901年、シュペートは同大学への再入学を許可される。ただし、歴史・文学部に入り直す。これとともに、G.I. チェルパーノフ(Г.И.Челпанов, G.I. Chelpanov)の「心理学ゼミナール」に参加、そこで認識論および近代西欧哲学史の研究を進める。1905年、同大学を卒業。卒業論文は『ヒュームとカントにおける因果性の問題 -カントはヒュームの疑念に答えたのか』。1907年、モスクワに移り住む。また、1910年以降、モスクワ大学、高等女子学校などで教鞭をとる(それらでの講義が論文「ヒュームの懐疑論と独断論」として1911年に活字化された)。
2)構想期(1910年-1916年)
1910年および11年の夏の数ヶ月、シュペートはベルリンで短期国外研修を行う。また1910年夏、チェルパーノフと共に、ライプツィヒ大学のW.ヴント(W. Wundt)、ベルリン大学のC.シュトゥンプ(C. Stumpf)などの心理学実験室を訪れる。1912年、論文「心理学の一つの道、それはどこに通じるのか」を発表する。続いて1912年から13年にかけて、ゲッチンゲン大学で長期研修を行い、E.フッサール(E. Husserl)の講義やゼミナールに出席、現象学から多大な影響を受ける。1913年秋に帰国、ロシアへの現象学(『イデーン I』)の紹介に努める。1914年、『現象と意味 -根本学としての現象学とその諸問題』を公刊。1916年、学位論文を提出し、モスクワ大学助教授に就任する。
3)展開期(1917年-1929年)
1917年の革命以降、シュペートは様々な分野で活躍する。1918年、モスクワ大学教授就任。1919年から20年にかけて、「モスクワ言語学サークル」に参加、R.O.ヤコブソン(P.O. Якобсон, R.O. Jakobson)、G.O.ヴィノクール(Г.О. Винокур, G.O. Vinokur)らに影響を与える。1921年、モスクワ大学での教職から追放されるが、同年、科学的哲学研究所(後のソ連科学アカデミー哲学研究所)の初代所長に就任。また、同年、ロシア芸術学アカデミー(後の国立芸術学アカデミー)の会員に選出され、22年以降、同アカデミーの哲学部門を指導、さらに24年から、同アカデミーの副総栽を務める。この時期の著作として、『ロシア哲学の発展の概観』第1巻(1922年)、『美学断章』第1部-第3部(1922年-23年)、『民族心理学序説』第1部(1927年)、『言葉の内部形式 -フンボルトを主題とする練習曲と変奏曲』(1927年)など多数。
1929年、政府により国立芸術学アカデミー解体。シュペートは同アカデミーで反ソヴィエト的集団を指導したとされ、哲学に関わる活動を禁じられる。以後は文学作品の翻訳等に従事。1935年、逮捕され、エニセイスクヘ流刑。1936年、トムスクの流刑地に移る。1937年10月、再逮捕、11月16日、銃殺。
2.構想期の著作
①「ヒュームの懐疑論と独断論」(1911年)
シュペートは自身の哲学的問題を、ヒュームの懐疑を受容することによって明確化した。
形而上学的発想によれば、存在するとは、特定の何かのみが真に存在し、他のすべてはそれに依存していることである。そのため形而上学は真に存在するものの探求に努める。しかし、この探求は様々な種類の真に存在するものを提出するばかりで、一向に意見の一致を見ることがなかった。これに対し、ヒュームは真に存在するもの全般の否定を試みる。だが、これは、すべては真に存在するのではない、すべてが虚構なのだと言うに等しい。ヒュームはこの考えに満足できない。しかし同時に、形而上学に回帰することも望まない。こうして彼はジレンマに陥る。
とはいえ、シュペートはヒュームが徹底して懐疑したことを高く評価する。シュペートの考えでは、例えばカントは、因果律の客観的妥当性を認めた点で不徹底であり、古い型の形而上学を克服し切れていない。
②「心理学の一つの道、それはどこへ通じるのか」(1912年)
シュペートはジレンマ解消の方策を探して、彼にとっての同時代の心理学(認識論)の広範な研究に向かう。そして、彼はその方策を主客対立図式の廃棄に見出す。
普通、客観的なものとは、真に存在するものであり、一方、主観的なものとは、真に存在しないものである(主観こそが真に存在するという説もあるが、これにおいては、客観がむしろ真に存在しないとされるのであり、つまり普通と逆に考えられているだけである)。したがって、客観と主観との区別が完全に取り払われたならば、その時には、真に存在するものと真に存在しないものとの差別が撤廃され、すべてが真に存在することになる。
シュペートはこの発想を特にW.ディルタイ(W. Dilthey)の記述心理学から得ている。またシュペートは、P.D.ユルケーヴィチ(П.Д. Юркевич, P.D. Yurkevich)、V.S.ソロヴィョフ(В.С. Соловъев, V.S. Solov'ev)、L.M.ロパーチン(Л.М. Лопатин, L.M. Lopatin)、S.N.トルベツコイ(С.Н. Трубецкой, S.N. Trubetskoj)など、19世紀後半および20世紀初めのロシアの哲学者たちのうちにも、同様の発想を見出している。
③『現象と意味』(1914年)
シュペートは、『イデーン I』におけるフッサールの志向性概念を支持する。なぜならば、志向性は主観と客観の不可分離性を含意するからである。しかしながら、シュペートは、フッサールが現象の向こう側に対象自体を認めていること、また、意識の統括者として「私」を認めていることを指摘し、彼が主客対立図式から完全には脱却できていないとする。シュペートは、フッサールの意識観から対象自体(「X」)および統括者(「純粋自我」)を払拭する。しかし、その場合、諸々の現象はいかなる客観的実体もいかなる主観的作用もないまま統一となり、秩序をなすのでなければならない。なぜそうしたことが可能なのか。シュペートは現象が言葉であるからだと答える。言葉としての現象にあっては、すべてが有意味であり、すなわち、すべてが真に存在する。ここに彼の言語と文化の哲学の構想が成立する。