スペイン語の単純過去形と現在完了形の通時的研究
鈴木 恵美子
現代イベリア半島スペイン語の一般的使用における直説法単純過去形(e.g. canté)と現在完了形(e.g. he cantado)は意味的に区別され、前者は発話時と断絶した過去の事象を表し、後者は発話時と何らかの関連をもつ発話時以前の事象を表すとされる。
現代半島スペイン語においてはこうした機能分担が確立していると言えるが、通時的には、その起源からスペイン語の歴史を通じて常に現代語のように明確な区別が保たれてきたとは言い難い。
現代スペイン語において、「haberの直説法現在形+過去分詞」という形式はいわゆる現在完了形として時制体系の中に組み込まれている。しかし起源的には、このうちのhaberが所有の意味を残し、「所有の結果状態」を表していた。やがて、「過去」の領域に意味を拡張させ、発話時と関連付けられた過去の事象も表せるようになっている。
一方、単純過去形の起源形は絶対的な過去の行為のみならず、現在と関連をもつ過去の行為をも表すことができたが、前述の「haberの直説法現在形+過去分詞」の形式の機能的拡張と相関する形で、「現在と関連をもつ過去」としての機能が次第に領域を狭め、現代語では絶対的な過去にほぼ特化している。
こうした二形式の機能的変遷を考慮に入れた上で、今度は現代スペイン語における地域的バリエーションに注目してみる。
現代イスパノアメリカの多くの地域のスペイン語においては、二形式間にイベリア半島スペイン語と異なる使い分けが見られるとされる。具体的には、単純過去形は、発話時と断絶された過去の事象のみならず、「直前」の事象や、いわゆる「拡張された現在」における事象も表すことができると言われている。
前述の二形式の機能分担の歴史と、こうしたラテンアメリカの多くの地域での現代スペイン語の状況を考え合わせると、一見、単純過去形の古い機能が、ラテンアメリカのスペイン語で保持されている、言い換えれば二形式の機能分担が古い段階をとどめているかのように見える。実際、現代ラテンアメリカのスペイン語の状況はアルカイスモ(古語法)と見なされることが多い。
本論文では、現代語において二形式の機能分担が見せる地理的局面と、そうした機能分担の通時的局面に注目し、二つの局面の関連性を考察していく。果たして、植民地時代の半島スペイン語に機能分担の古い段階が存在していて、その状況がそのまま半島からアメリカ大陸に移殖され、その後保持されて現代に至っていると言えるのであろうか。そこで、本論文の関心の対象は、現代語における地理的バリエーション、植民地時代における半島スペイン語の状況、同時代におけるアメリカスペイン語の状況という大きく三点にしぼられる。
こうした問題設定に基づき、次のような構成で検証していく。
第1章では、単純過去形と現在完了形について、半島スペイン語における基本的な意味と用法を確認する。前述の通り、二形式は「発話時との関連付けの有無」によって区別されるという見解が、従来の研究の大勢を占めている。こうした意味の規定においては、各形式の時制的・アスペクト的特徴が問題となる。1.2.では、これらの概念に関わる問題を整理した後、本論文が支持する規定の方法を確認する。
第2章では、現代語における二形式の機能分担のバリエーションに注目する。
まず、「一般的な半島スペイン語」対「イスパノアメリカの単純過去形優勢地域」という大局的な視点から先行研究の概観をおこなう。アメリカスペイン語では、「拡張された現在」(特に「直前」)の事象に言及して単純過去形が用いられる点で半島スペイン語との違いが見られる。これらは、半島スペイン語では現在完了形が担当することが多い用法である。他方、アメリカスペイン語の現在完了形については、「継続・反復」用法が割合上際立っている。調査では、半島、メキシコのスペイン語に焦点をしぼり、現代戯曲における二形式の使用状況を観察する。「直前の完了」用法を表す形式の選択において、現在完了形の割合が多い半島スペイン語と、単純過去形の割合が多いメキシコスペイン語では、二形式の使い分けに異なる基準が働いていると考えられる。「発話時との関連性の有無」という視点を優先させる半島スペイン語では、完結した事象であっても、発話時と関連をもつと見なされれば現在完了形が用いられるのに対し、メキシコスペイン語では、発話時まで事象(あるいはその効力)が存続している場合にしか現在完了形が用いられないことが多い。これと相関して、メキシコスペイン語では単純過去形が、完結した事象であれば発話時との時間的遠近に関わらず担当し、「直前の完了」や「拡張された現在」の完了の領域をもこの形式が覆っていると言える。以上からも、この「直前の完了」や「拡張された現在」の完了という用法がこれら二大変種を分ける鍵となっていることが分かる。
果たして実際に植民地時代の半島スペイン語でも、現代アメリカスペイン語におけるように明瞭な単純過去形優位の状況見られたのだろうか。そしてその状況がそのままアメリカ大陸に移植されて、今日まで維持されてきたのであろうか。
第3章では、こうした問題を検証するため、15世紀末~17世紀の半島スペイン語における状況を観察した。
前述した各形式の起源的意味は、中世スペイン語においてもある程度保たれていたが、やがて、現在完了形による過去の意味領域への発展に伴い、単純過去形は「発話時と関連する過去」の機能を弱めていくことになる。この過程は急激に生じたというよりも、徐々に進んでいったと推定される。というのも、14世紀から15世紀にかけても、単純過去形が「発話時と関連する過去」を表していると見られる用例が確認できる一方で、現在完了形が同じ意味を表している例も共存しているからである。つまりこの時代には、現代半島スペイン語のような区別に向かう前段階として、二形式が共存する過渡的な状態が見られたと考えられる。
3.3.でおこなう調査では、この時期以降の二形式の使用状況を検証するため、15世紀末から17世紀にスペインで書かれた戯曲形式と自伝形式の作品を用い、「発話時と関連する過去」の事象を表す文脈での各形式の現れ方を観察する。
戯曲形式の作品については、「直前(拡張された現在)の完了」の用法について、単純過去形のみならず現在完了形も用いられることが明らかになったが、そこでは、どちらかの形式が明らかな優勢を見せているわけではなく、作品によってもばらつきが見られた。この点で、第2章で観察した現代半島スペイン語や現代メキシコスペイン語のような、一方の形式が明らかな優位に立つ様相とは異なっている。もっとも、現在完了形が「直前(拡張された現在)の完了」の用法で用いられる頻度はどの作品においてもかなり高く、当時すでにこの形式の主要な用法になっていたことが推定される。この点でも、メキシコスペイン語型の現在完了形の状況とは異なる。
16世紀の自伝形式の作品においては、テクストの性質上、上記の「直前の完了」の用法自体出現しにくいという問題はあるが、テクスト上の既出の部分に言及する場合が特に注目される。これはいわば、テクスト上での「拡張された現在の完了」の用法とも言えるが、こうした文脈では、現在完了形の出現が支配的であった。この用法での現在完了形の頻出は、同時代の戯曲形式の作品の調査結果と一致している。
以上のような観察から、植民地時代の半島スペイン語では、現代アメリカスペイン語のように、「直前(拡張された現在)の完了」の用法における単純過去形優勢の状況が見られたとは言い難い。したがって、現代のアメリカスペイン語の状況を、植民地時代の半島スペイン語の状況が移殖されてそのまま保持されているという意味でアルカイスモとみなす考え方にはかなり検討の余地がある。
第4章では、植民地時代の文書における状況を観察した。ここでの観察結果も、同時代の半島スペイン語で見られた状況と同様に、現代半島スペイン語とも、現代メキシコスペイン語型の状況とも必ずしも一致していない。ここでは、「拡張された現在(直前)の完了」の用法において、現在完了形と単純過去形が混在しているのである。現代半島スペイン語のような現在完了形優位の形勢や、現代アメリカスペイン語のような単純過去形優位の形勢といった、片方の形式への偏向は見られない。
植民地時代の文書に見られるこうした傾向は、むしろ同時代の半島スペイン語の状況に近いと言える。第3章で確認した通り、同時代15世紀から17世紀の戯曲作品や自伝形式の作品では、「拡張された現在(直前)の完了」の用法における二形式の混在が見られた。
以上の観察結果は、当時の半島スペイン語で見られたような過渡的な段階が、植民地文書にも反映されている可能性を示唆している。現代メキシコスペイン語などに見られる単純過去形の優勢は、移殖期当初から明瞭な形で見られたわけではなく、こうした過渡的な段階を出発点として、後の時代に形成されていった可能性を考える必要がある。この点からも、現代イスパノアメリカの多くの地域に見られる単純過去優勢の状況を、中世スペイン語の段階の保持であるとする見方にはやはり問題があると言わざるをえない。
現代半島スペイン語とアメリカスペイン語の共通の基盤となる時代である、植民地移殖期の半島とアメリカ大陸で書かれた資料における使用状況を見る限りでは、現代語のいずれの変種も、二形式の使い分けをその時代から変容させずに維持しているとは言い難い。各変種は、その共通の基盤で見られた混沌とした状況を出発点として、各々独自の基準をもとに二形式の使い分けを確立していったと推定される。「スペイン語の歴史の中で見られたある古い段階との一致とその絶えざる保持」を「直接的な関連性」ととらえるならば、この意味では、現代語における両変種のいずれにおいてもそうした古い段階との関連性は見い出せないと言える。